Q 京都に住んでいた頃の記憶は?(〜小学校低学年)

 

エレクトーンからピアノ教室へ通うことに。しかし、先生の言うことが頭に入らない自分も嫌、毎日の練習も嫌、いつもガミガミ怒る母も嫌だった。楽しい思い出の記憶がない。とにかく嫌で仕方が無かった。

 

ピアノ教室のMという子と友人のような関係に。その子は一人っ子でお金持ちで頭も良く、ピアノもできる、いわゆる“出来の良い子”だった。いつも、親に買ってもらった高級なおもちゃなどを自慢されていたように思う。うちの家は貧乏だ、貧乏だと言われ、欲しいものもあまり買ってもらえず、我慢ばかりの毎日なので、Mが羨ましくて仕方が無かった。Mが「従わせ」、私が「従う」ような関係。ジャイアンとスネ夫状態。いつも嫌味や自慢やわがままを言われていたように思う。辛くて、母に相談したようにも思うが、「仕方がない、うまくやっていくしかない」というような返事しかもらえなかったように思う。彼女との関係は、クラス替えで2人が離れる、3年か4年生くらいまで続いたと思う。他の友人はいなかったような。

 

持病を持ったMHという子がいた。誕生日会に呼ばれた。とても豪華でびっくりした。その子の母親はありがとう、ありがとう、と私たちに言っていた。その子はしばらくして亡くなった。その子の母親の気持ちを今思うと切ない。

 

Mのバレエの発表会に呼ばれた。その子の母親と祖母はありがとうと言って、とっても高級なぬいぐるみがついた雑貨?をプレゼントしてくれた。その子は私以外にはあまり友達がいなかったように思う。私はただ単純に、豪華なプレゼントが嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。

 

とにかく、最低限泳げたほうが良い、とのことで、スイミングスクールに通っていた。スイミングスクールは、とくに嫌だった思い出はない、が取り立てて楽しい思い出もとくになし。

 

1年生の時、コンクリートの溝に落ちて、太ももに大怪我。自分の肉を針と糸で縫うということがとても信じられなくて、全力で抵抗した結果、薬での治療に。現在も大きなミミズ腫れが残る。怪我をした次の日は、登校班のみんながとても優しくてびっくりした。人にこんなに優しくされることってあるんだ、と思った。その後、怪我の原因は、トラブルメーカーで嫌われ者のYが押したからだ、ということをみんなに言いふらしていたように思う。3、4年生の時に突然謝罪の手紙をもらって、怖かったし悪かったなと思った。

 

2年生の時、朝ごはんの味噌汁が私の太ももにかかり、大やけど。ケロイド状態。しばらくガーゼや包帯が自分の皮膚にくっついて、剥がすときのあの感触とビジュアルが嫌で嫌で仕方が無かった。

 

3年生の時、学校の廊下で頭をぶつけて切る。何針かで治療。この1、2、3年連続で怪我をした、というのは自分の持ちネタにして、いつも得意げに話していたように思う。

 

小学校を入学しても、学習机を買ってもらえなかった。他の子はピカピカの学習机を買ってもらっているのに、何故私だけ、という思いが強かった。みんなのような、キャラクターのいわゆる“子供っぽい”机が欲しかったのに、父があんな机はすぐ飽きるからダメだ、と言って大人っぽい学習机を3〜4年生くらいになってから買ってもらった。妹は入学すぐに買ってもらえていて、不平等だと思った。

 

同じくファミコンもブームの時買ってもらえず、3〜4年生になってからやっと買ってもらった。

 

クリスマスにシルバニアファミリーが欲しい、と頼んだのに、プレゼントの本が2冊(一冊は「ああ無情」)だった。でも、親に悪いと思ったのか、「本好きだから嬉しいな」とか言っていたような気がする。でも激しくショックで、激しく落ち込んだ。

 

友人がMしかいなかったし、人とのコミュニケーションの取り方もわからなかったし、モノを買ってもらえない不満が溜まっていたのもあってか、私は母の財布からお金を盗み取ることが多くなった。盗んだお金でクラスメートや近所の子に、駄菓子屋のお菓子をおごりまくって、みんなの気を引いていた。その後バレて、母と父とに怒られたような気がする。

 

モノを買ってもらえない、お小遣いをもらえない、不満なのか、いとこの家に遊びに行った時、100円ショップだか300円ショップだかに連れていってもらって、なんでも買って良いと言われたので、遠慮も一切せず、素直に大量のおもちゃを買ってもらったような記憶。

 

祖父祖母の家に遊びに行くときは、いつも嬉しかった。特別におもちゃも買ってもらえるし、親も優しいし祖父祖母もやさしい。とてもウキウキしていた。

 

妹は、好き嫌いが多く、身体も弱く、顔も可愛く、素直で甘えん坊の可愛らしい子供だった。彼女のことを悪く言う人はひとりもいなかったし、すくすくと育っていたと思う。素直な友人たちと、素直にいつも楽しそうに遊んでいて、羨ましかった。私はそうはできないから、いつも可愛くも思っていたけれど、妬んでもいた。私が持っていないものを全て持っているように思った。

 

頭が悪いので、漢字も九九も覚えるのにすごく時間がかかったし、宿題もきちんとやらなかったことが多かった。とてもだらしない子供でモノを壊したり無くしたりも多かったと思う。

 

クラスメートが催す「お誕生日会」に時々呼ばれて、羨ましく思っていた。自分もあんな風にみんなにお祝いしてほしくて、母に頼んだら、すぐに面倒くさそうなセリフとともに即却下。すごくショックだった。たぶん、誕生日会をしてもらえないことよりも面倒くさそうな母のリアクションがショックだったのだと思う。その後、しばらくしてから「誕生日会をやろう」と言ってくれたけど、あの心底面倒くさそうな嫌そうな母のリアクションを見てしまったら、もうしてほしいとは言え無かった。

 

なかなかの暗黒期の小学校低学年時代。

 

3年連続で大怪我をし、ジャイアンスネ夫関係の友人Mとの3年も続く服従関係。

 

「貧乏の家だから我慢しなさい」と言われ続け、学習机やファミコンをはじめとする、

みんなと同じモノを持てない不満は爆発。

家のお金を盗んで、クラスメートに奢って気を引くという、卑しい惨めな子供。

よその家で無遠慮にモノを買いまくってもらう、卑しさ。

 

無理矢理通い続けさせられたピアノ教室でも、家でも怒られ続け、

学校での成績は悪く、すぐズルをする。

 

私が出来なかったこと、したかったこと、欲しかったものを

ひょいひょいと手に入れていく妹。

私と真逆の妹は、そこそこ頭も要領も良く、顔も良く、素直で愛嬌もあった。

 

私は、ダメな人間だとこの時、強く感じていたと思う。

 

「人間関係は“従うか従わせるか”」「自分は無価値な人間である」

「頑張りたくない=無気力」

「人に構ってほしい、気にかけてほしい、そのための卑しい行動」

私という人間の骨組み、ベースが形成されたのはこの時期なんだな、と発見。

 

人間関係の基礎を学べていないし、卑しい行動ばかりしているから、

そういうことを無かったことにしたり、

ぼかした認識に止め、自分自身と向き合おうとしない。

 

足りないし、できないし、満たされないし、羨ましいし妬ましいし

どうすればいいかわからない、そんな子供時代。

 

ああ、この青空のなかに消えてしまいたい、と思いながら、

家の前に広がる田んぼをぼんやり見ながら

スケッチまがいのことをしていたことを思い出した。

 

可哀想で哀れなこども。それが僕。