マイナス、プラス

 

廃棄物というマイナスイメージな物体が、
ポップなカラーでプラスに見えるのが
ビジュアルの不思議。

すずめたち

 

稲穂の実を狙って、すごい数が集まってた。
秋近し。

伸びていける

 

塀の外だって、枠の外だって、

いつでも、どこへでも。

 

Q 京都に住んでいた頃の記憶は?(〜小学校中高学年)

 

ジャイアンスネ夫関係の友人Mと(やっと)クラスが分かれ、新しい友人ができる。私を入れて3人の友人関係。SとA。SとAは仲が良く、私は友人たちが自分のことを嫌いなのでは、といつも疑っていて、一緒に帰るにしてもわざと距離を開けて帰ったりしていた。「一緒に帰ろう」と、声をかけてもらうのをずっと待ってた。実際、わたしはあまり好かれていなかったのかも。

 

Mとはそのまま疎遠に。

 

漫画雑誌ブーム。毎月の漫画と付録に夢中だった。漫画の交換日記をSとしていた。Sはとても絵が上手かった。わたしはあまり上手くなかった。連載漫画の予告編だけをいつも書いていた。

 

京都という土地柄なのか、裏表が激しいところがあった。クラスの担任の先生は生徒たちにいじめられていた。静岡のおっとりとした裏表のあまりない両親の価値観と、学校の(京都)価値観のズレはわたしをおおいに困惑させた。誰も本当のことを言っていないような気がして、誰も信用できなかった気がする。

 

妹は、素敵な友人といつも全力で楽しそうに遊んでいて、とても羨ましかった。その分、妹に「従える」ような関係を強いていた。

 

内弁慶傾向がではじめる。妹とその友人たちがわいわいしているのに、一人で居たりしていた。母が誘ってきても拒否して、ひとりでスネていた記憶。

 

学校でけん玉ブームがあって、わたしもけん玉を買ってもらったような記憶。

 

お隣さんの別のクラスのYと休日や夏休みによく遊びに誘ってきて、遊んだ。バトミントンなどの遊びをしていたけれど、何が面白いのかわからなくて、早く時間が過ぎないかなあといつも思っていた。Yはとても明るくて素直で素敵な子だった記憶。

 

小学5年生で大阪へ転校に。悲しいよりも、この状況から抜け出せる!という期待気持ちと、新しい環境への大きな不安があったように思う。

 

京都特有の裏表のコミュニケーションとか、クラス全員で先生を虐める陰湿さとか

そういうのがとても怖かったし、馴染めないまま過ごしていたような記憶。

 

友人関係もいつも自分の悪口を言っているんじゃないかと疑っていたように思う。

 

そのストレスを母や妹に向けはじめる内弁慶傾向が、この頃からではじめる。

 

低学年の頃のような事件はあまりなかったけれど、

人が信じられないまま、人の目ばかり気にして、びくびくしていた時期?

 

あまり記憶が思い出せなかったのは、ある程度平和だったから?

 

コメント:この機会に読み直してみたら、ほとんど自分に当てはまることばかり書いてあって、びっくり。以前より、もっと具体的に自分と向き合えるようになってきているのかも?

コメント:MY本棚殿堂入り本。明るくなくても社交的じゃなくても、楽しく生きていける!

山と雲

 

 

2本のライン。
雲も山みたいなかたち。

偶然の産物

 

構図も気に入ったし

こんな上から人を撮影したのもはじめてで、

たまたま撮れたものだけど、ちょっと嬉しい。

 

空っぽを、埋めてゆく

 

この作業はなかなか、しんどいし、つらい。

でも、これをしなければ

前に進めない、という予感は、正しいと思う。

Q 京都に住んでいた頃の記憶は?(〜小学校低学年)

 

エレクトーンからピアノ教室へ通うことに。しかし、先生の言うことが頭に入らない自分も嫌、毎日の練習も嫌、いつもガミガミ怒る母も嫌だった。楽しい思い出の記憶がない。とにかく嫌で仕方が無かった。

 

ピアノ教室のMという子と友人のような関係に。その子は一人っ子でお金持ちで頭も良く、ピアノもできる、いわゆる“出来の良い子”だった。いつも、親に買ってもらった高級なおもちゃなどを自慢されていたように思う。うちの家は貧乏だ、貧乏だと言われ、欲しいものもあまり買ってもらえず、我慢ばかりの毎日なので、Mが羨ましくて仕方が無かった。Mが「従わせ」、私が「従う」ような関係。ジャイアンとスネ夫状態。いつも嫌味や自慢やわがままを言われていたように思う。辛くて、母に相談したようにも思うが、「仕方がない、うまくやっていくしかない」というような返事しかもらえなかったように思う。彼女との関係は、クラス替えで2人が離れる、3年か4年生くらいまで続いたと思う。他の友人はいなかったような。

 

持病を持ったMHという子がいた。誕生日会に呼ばれた。とても豪華でびっくりした。その子の母親はありがとう、ありがとう、と私たちに言っていた。その子はしばらくして亡くなった。その子の母親の気持ちを今思うと切ない。

 

Mのバレエの発表会に呼ばれた。その子の母親と祖母はありがとうと言って、とっても高級なぬいぐるみがついた雑貨?をプレゼントしてくれた。その子は私以外にはあまり友達がいなかったように思う。私はただ単純に、豪華なプレゼントが嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。

 

とにかく、最低限泳げたほうが良い、とのことで、スイミングスクールに通っていた。スイミングスクールは、とくに嫌だった思い出はない、が取り立てて楽しい思い出もとくになし。

 

1年生の時、コンクリートの溝に落ちて、太ももに大怪我。自分の肉を針と糸で縫うということがとても信じられなくて、全力で抵抗した結果、薬での治療に。現在も大きなミミズ腫れが残る。怪我をした次の日は、登校班のみんながとても優しくてびっくりした。人にこんなに優しくされることってあるんだ、と思った。その後、怪我の原因は、トラブルメーカーで嫌われ者のYが押したからだ、ということをみんなに言いふらしていたように思う。3、4年生の時に突然謝罪の手紙をもらって、怖かったし悪かったなと思った。

 

2年生の時、朝ごはんの味噌汁が私の太ももにかかり、大やけど。ケロイド状態。しばらくガーゼや包帯が自分の皮膚にくっついて、剥がすときのあの感触とビジュアルが嫌で嫌で仕方が無かった。

 

3年生の時、学校の廊下で頭をぶつけて切る。何針かで治療。この1、2、3年連続で怪我をした、というのは自分の持ちネタにして、いつも得意げに話していたように思う。

 

小学校を入学しても、学習机を買ってもらえなかった。他の子はピカピカの学習机を買ってもらっているのに、何故私だけ、という思いが強かった。みんなのような、キャラクターのいわゆる“子供っぽい”机が欲しかったのに、父があんな机はすぐ飽きるからダメだ、と言って大人っぽい学習机を3〜4年生くらいになってから買ってもらった。妹は入学すぐに買ってもらえていて、不平等だと思った。

 

同じくファミコンもブームの時買ってもらえず、3〜4年生になってからやっと買ってもらった。

 

クリスマスにシルバニアファミリーが欲しい、と頼んだのに、プレゼントの本が2冊(一冊は「ああ無情」)だった。でも、親に悪いと思ったのか、「本好きだから嬉しいな」とか言っていたような気がする。でも激しくショックで、激しく落ち込んだ。

 

友人がMしかいなかったし、人とのコミュニケーションの取り方もわからなかったし、モノを買ってもらえない不満が溜まっていたのもあってか、私は母の財布からお金を盗み取ることが多くなった。盗んだお金でクラスメートや近所の子に、駄菓子屋のお菓子をおごりまくって、みんなの気を引いていた。その後バレて、母と父とに怒られたような気がする。

 

モノを買ってもらえない、お小遣いをもらえない、不満なのか、いとこの家に遊びに行った時、100円ショップだか300円ショップだかに連れていってもらって、なんでも買って良いと言われたので、遠慮も一切せず、素直に大量のおもちゃを買ってもらったような記憶。

 

祖父祖母の家に遊びに行くときは、いつも嬉しかった。特別におもちゃも買ってもらえるし、親も優しいし祖父祖母もやさしい。とてもウキウキしていた。

 

妹は、好き嫌いが多く、身体も弱く、顔も可愛く、素直で甘えん坊の可愛らしい子供だった。彼女のことを悪く言う人はひとりもいなかったし、すくすくと育っていたと思う。素直な友人たちと、素直にいつも楽しそうに遊んでいて、羨ましかった。私はそうはできないから、いつも可愛くも思っていたけれど、妬んでもいた。私が持っていないものを全て持っているように思った。

 

頭が悪いので、漢字も九九も覚えるのにすごく時間がかかったし、宿題もきちんとやらなかったことが多かった。とてもだらしない子供でモノを壊したり無くしたりも多かったと思う。

 

クラスメートが催す「お誕生日会」に時々呼ばれて、羨ましく思っていた。自分もあんな風にみんなにお祝いしてほしくて、母に頼んだら、すぐに面倒くさそうなセリフとともに即却下。すごくショックだった。たぶん、誕生日会をしてもらえないことよりも面倒くさそうな母のリアクションがショックだったのだと思う。その後、しばらくしてから「誕生日会をやろう」と言ってくれたけど、あの心底面倒くさそうな嫌そうな母のリアクションを見てしまったら、もうしてほしいとは言え無かった。

 

なかなかの暗黒期の小学校低学年時代。

 

3年連続で大怪我をし、ジャイアンスネ夫関係の友人Mとの3年も続く服従関係。

 

「貧乏の家だから我慢しなさい」と言われ続け、学習机やファミコンをはじめとする、

みんなと同じモノを持てない不満は爆発。

家のお金を盗んで、クラスメートに奢って気を引くという、卑しい惨めな子供。

よその家で無遠慮にモノを買いまくってもらう、卑しさ。

 

無理矢理通い続けさせられたピアノ教室でも、家でも怒られ続け、

学校での成績は悪く、すぐズルをする。

 

私が出来なかったこと、したかったこと、欲しかったものを

ひょいひょいと手に入れていく妹。

私と真逆の妹は、そこそこ頭も要領も良く、顔も良く、素直で愛嬌もあった。

 

私は、ダメな人間だとこの時、強く感じていたと思う。

 

「人間関係は“従うか従わせるか”」「自分は無価値な人間である」

「頑張りたくない=無気力」

「人に構ってほしい、気にかけてほしい、そのための卑しい行動」

私という人間の骨組み、ベースが形成されたのはこの時期なんだな、と発見。

 

人間関係の基礎を学べていないし、卑しい行動ばかりしているから、

そういうことを無かったことにしたり、

ぼかした認識に止め、自分自身と向き合おうとしない。

 

足りないし、できないし、満たされないし、羨ましいし妬ましいし

どうすればいいかわからない、そんな子供時代。

 

ああ、この青空のなかに消えてしまいたい、と思いながら、

家の前に広がる田んぼをぼんやり見ながら

スケッチまがいのことをしていたことを思い出した。

 

可哀想で哀れなこども。それが僕。

 

ゆらゆら、ひかり

 

光の撮影、できれば先で色々チャレンジしてみたい。

Q 京都に住んでいた頃の記憶は?(〜幼稚園)

 

音楽好きの母が、私をエレクトーン教室に通わせる。物覚えが悪いのか、素質というものが無かったのか、あまり記憶がない。あまり楽しくなかったのだと思う。

 

幼稚園が工場の中にあった。お茶教室や新体操の授業がある、変わった幼稚園だったように思う。

 

音楽教室に通っている?せいなのか?運動会の演奏で鼓笛隊に抜擢。アニメ「キャッツアイ」の演奏をする。楽しかったし、嬉しかった記憶。

 

テニスを習っている C と友達のような関係。しかし、私はその子に、子分のような扱いをしていたような記憶。頭が良い子で運動神経も良く性格も良かった。私に付き合ってくれていたように思う。途中で海外に引っ越しをした。

 

C と親には言えないような、悪いことをしていた記憶。「と」というより、私が C に無理強いしていた。

 

はじめての料理(?)。父が帰ってくる時間に合わせて、魚を一人で焼いてみた。父に褒めてもらいたくて、喜んでもらえると思って、すごくドキドキわくわくして、帰りを待っていた。しかし、父はひとこと「いらない」。とてもとても悲しくて、今でも思い出すととても切ない気持ちになる。

 

家族旅行は、子供たちが行きたいところではなく、父の行きたいところが多かったように思う。神社、寺、観光地、温泉…。家族旅行についての、思い出の記憶があまりないのはそのせいか。足の速い、父親をひたすら追いかけているような旅だったように思う。

 

妹が生まれる。母のお見舞いに行くと父か母がヤクルトをくれた。それが、なんだか嬉しくて記憶に残っている。

 

この歳位から、人との関係性が「従うか従わせるか」という傾向が出てくるように。

 

それは、父と母の関係がそうであったことも、原因のひとつのように思う。

父は子供の私からみて、随分な亭主関白だった記憶。

母親が気が強くて何かを主張するタイプだったら、

夫婦のコミュニケーションやパワーバランスもとれていたのだろうけど

母はひたすら父を敬って、自分の意見を言わない人だった。

 

また父の意見は絶対で、子供にも主張をさせなかった。

主張をしかけても、父の意見ですぐにダメになることが度々だった。

 

人間関係のお手本が両親であり、夫婦の関係が

「従わせる人、従う人」という白黒、0か100の、単純な構造であったために

複雑なコミュニケーションを見て学ぶ機会が無かったのだろうと思う。

 

団塊ファミリーの典型的のパターンのひとつだと

何かの本で読んだような気がするが、

会社は父に、父は母に、母は子供にストレスのバトンを渡す。

 

要領と頭の良い子であれば、どこかの段階でクリアできたのだろうけど、

私が要領も頭も悪く、捻くれた行動ばかりをしていたので

母親はそんな私にいつもイライラしていたのではないかと思う。

 

それでもまだ、ひとりの普通の子供としての“すくすく”感は、

この頃にはあったように思う。

 

評価:
斎藤  学
コメント:人のためではなく、自分の人生。MY本棚殿堂入り。